「それじゃ、また来るよ」
 気軽に手を振って去っていく客人の“また”が、いつかは二人とも知らないままである。おそらく玉鼎が声をかけるまでは、宝貝の押し売りには来ないであろう。
 さりげない気づかいを有難く受け取り、随分と心配を掛けたようだと不甲斐なさを反省する。
『――でも、家族じゃなくても、可愛いとは思ってるんだろう?』
 その確認には迷わず肯定の言葉を返すと、太乙は揶揄う声音の裏に安堵をにじませた。
先 程は語らずに誤魔化したものの、誰かの親代わりとして立つには自信が無いだけだ。家族にはなれなくとも、玉鼎の想いはただの師弟関係を越えており、精一杯慈しんで育てると心に決めていた。
「楊ゼン、起きたのだろう。太乙が土産を持ってきてくれたよ」
 灯りを燈しながら呼びかけると、いつもは打てば響くように返る声が聞こえない。
 訝しんで、洞府のあちこちを見回った玉鼎は、寝室の窓だけが不自然に開け放されているのを見てぎょっとした。小柄な身体ひとつならば通り抜けられそうな幅の隙間から、夜の玉泉山特有の、草木をも凍えさせる風が吹きつける。
「楊ゼン? ……いないのか?」
 目を覚まして洞府を歩き回る気配には気づいていたが、寝室や回廊はもとより、小さな影を隠してしまいそうな物陰のどこにも見当たらない。
 何者かに拐された可能性も頭をよぎるが、先刻の客人以外に外部から侵入した痕跡もない。楊ゼンは基本的に従順で、理由もなく言いつけに背くことがなかったため、洞府の外の危険はそれほど考えていないのが徒になった。
「楊ゼン……」
 自分の意志だけではそれほど遠くまで行けまいという根拠のない予想と、片手に収まる燈火宝貝を頼りに、玉鼎は闇に沈む森へ足を踏み入れた。
 けれども、どんどん下がっていく周囲の温度に、心配は増すばかりだ。玉泉山は崑崙の中でも殊に寒いと言われており、修行を積んだ仙人ならいざ知らず、楊ゼンはそもそもこの山に慣れていない。
 それに、まだ玉虚宮にいた頃は、暗闇をひどく怖がったものだった。お化けがいる、と玉鼎の袖を握って離さなかった姿を、昨日のことのように思い出してしまう。
 初めて髪をなでて一緒に鞦韆に乗った時から、その小さな生き物は、玉鼎にとってかけがえのない存在になった。楊ゼンが玉虚宮を出るにあたって、金霞洞の弟子として養育することを願い出たのも玉鼎自身だ。
 しかし、思えば玉泉山に来て以来、楊ゼンは何か思い悩んでいる様子だった。いつか父親が迎えに来て、金鰲島に戻れると信じていたのを、崑崙の仙人の弟子となった以上そんな日は来ないのだと、疑念が確信に変わったのかもしれない。
 気づいてさえやれなかった自分自身に失望をおぼえながら、どれほど歩いただろうか。
 枯れ葉の擦れる軽い音に、玉鼎ははっと顔を上げた。
 間違いなく、探していた足音だ。
「楊ゼン、何処にいる? 楊ゼン!」
「ぎょ……て、……ししょ……う」
 ようやく返った声に我を忘れ、枝を乱暴にかき分けて、蹲ったこどものもとへと駆け寄る。
 膝をかかえ、寒さに震えて、うつろな視線が目蓋に覆われている。この季節の外出には到底向かない夜着のまま、服も顔も手足も傷だらけというひどい有様だった。
 あまりの痛々しさに、咄嗟に手を伸ばそうとして、
「どうして……?」
 ……それを、この場で問われねばならないことが、これほど堪えると思わなかった。
 探しに来た理由までも分からないと告げる不信は、言い訳を重ね、向き合うのを先送りにしていた報いなのだ。
 それでも、いてもたってもいられず、言葉を探す前に力をこめて抱きしめる。一粒でも、一滴でも伝わってほしいと願った。
 長いこと山の中をさ迷っていたのだろう、楊ゼンの身体は何処に触れても凍りついたように冷たかった。
「独りで黙ったまま、どこかへ行かないでおくれ」
 腕の中の子どもは俯いて答えない。
「おまえは私の、大切な存在なのだから」
 白い歯が唇を噛みしめるのを、玉鼎は指先でそっとなぞってやめさせた。
 それは、ふたりが出逢ってから今まで続けてきた合図のひとつだった。
「……家族じゃ、なくても? 僕が、妖怪(バケモノ)でも……?」
 泣くのをこらえて強張った声を、安心させることができるとしたら、今だ。
「どんな形であっても……何があっても。私はおまえを手放したり、見捨てるつもりなどないよ」
 玉鼎は腕の力をゆるめず、懸命に言い聞かせる。いつの日か独り立ちし、行く道を見定めるまで、傍にいると。
「……っ」
 ひく、と細い喉が鳴り、唇がわなないた。
 ずっと恐ろしくて、寂しくて、どうすれば良いか分からなかったと、しゃくり上げながら訴えられる言葉に、胸を衝かれる。
 繰り返し髪をなでてやるくらいではとても足りないだろうが、これ以上野外に留まれば、身体を冷やしすぎて凍瘡を起こしかねない。燈火宝貝の明かりも時間切れが近く、不安定にちらつく。
「一緒に帰ろう。楊ゼン」
 頷いてしがみついてくる体温が限りなくいとおしく、はぐれないように抱き上げようとしたところで、
「あ、あるけます! ……歩き、ます。もう、子供じゃないから」
と思わぬ抵抗に遭った。
 大人のように扱われたい年頃とはいえ、傷だらけの足を見ればそれを許すことはできない。
 玉鼎は少し考えて、楊ゼンに自分の大袖を着せかけて告げた。
「そうだな。ならば、乗りなさい」
 有無を言わさず腕でとらえるのではなく、膝をついて背を示すと、まるい瞳がまんまるになる。こわごわと伸ばされる手に、しっかり掴まるよう促した。
 仙界広しといえど、優れた剣の技量で名を馳せる玉鼎真人に膝をつかせた弟子は楊ゼンひとりだ。背中に感じる重みと温もりは、信頼の証だった。
「恐ろしいものは、もう見えないか?」
 厚い雲が風を受けて千切れた。沈みゆかんとする鬱金の月が、さあっと眩い光を放つ。
 こどもは月がきれいですと呟いて、庇護者の背中に顔を埋め、また涙を零した。
 それは春を告げる、優しい雨だった。




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