楊ゼンが目を覚ますと、陽の傾ききった寝室にひとりきりだった。あわてて耳の上に手を当て、固い角の感触が無いことを確かめる。
(今はちゃんと、ヒトに見えるはず)
 金霞洞で新しい生活を始めたものの、洞府の硬質で冷たい空気や、薄らぐ記憶の中にある戻れない故郷の思い出に、気分が塞いで術の安定を欠くことが増えた。迂闊な失敗に、溜息が洩れる。
(まだ、お怒りだろうか)
 幼い頃から面倒を見てくれ、唯一心を開いて慕う師に、強い言葉で叱られた経験などほとんどなかった。厳しい表情が蘇り、泣きたくなって唇を噛む。
 ただでさえ、崑崙における楊ゼンの立場は異端な厄介者である。このまま見捨てられてしまったら、今度こそ行き場もなくさまようことになる。残酷で恐ろしい妖怪仙人の子どもなど、誰が引き取ってくれるだろうか。
 自分の想像にひどく心細くなって、身繕いもそこそこに、楊ゼンはそろりと寝台を降りた。
 裸足のまま寝室を出ると、洞府に客人が来ているようだった。かすかな話し声に耳を欹て、玉鼎に対する遠慮のない物言いから、師と親しい高位の仙人であるらしいと考えを巡らせる。
 いつもならば、声を掛けられてもいないのに様子をうかがうような不作法な振る舞いはしないのだが、不安とちょっぴりの好奇心には勝てず、物陰に隠れることにした。できるだけ息をひそめて、切れ切れに聞こえてくる会話に集中する。
(何だろう。僕のことを……?)
 そして、ふと雑音がおさまったと思った瞬間、静かな声がまっすぐに響いた。
「否。私はあの子の家族ではないよ」
 その科白に、楊ゼンのからだは頭から足元まで凍りつき、指の一本も動かなくなった。
 玉鼎が楊ゼンの親ではないのは動かしようのない事実であり、気安い間柄の客人ならばそれを話すのも当然のことだ。
 頭では分かっても、小さな胸を刺しつらぬいた衝撃から逃れられない。どうしてこんなにも苦しくなるのか、楊ゼンには分からない。
『家族ではないよ』
 玉鼎真人は楊ゼンに、雲の切れ間を指さして、光を見せてくれた人だった。
 離ればなれになった父が恋しくて泣く自分を、いつも玉鼎が慰めてくれたことを思い出す。大きな手のひらに手を引かれ、少しは前に進めたと思っていたけれど、それは自信ではなく、同情の上に根付いた慢心だった。
 そして自分は、師の優しさに甘えていたのだ。
 誰に諭されるまでもなく、親と呼ぶべきはたったひとりと知っていたはずが、無意識な甘えを見透かされたことが恥ずかしかった。
 何よりも、師に恥じぬよう誇り高くあろうとしていた楊ゼンにとって、そのプライドをへし折るには十分な一言だった。
(そうだ。僕は、ばけものだ)
 妖怪と人間は家族になれないなんて、考えてみれば当然のことだ。何を思い上がっていたのだろう。
 どこをどう歩いたものか、楊ゼンはいつの間にか寝室に戻ってきていた。膝が小刻みに震え、呼吸のひゅうっという音がやけに耳につく。
「あ……」
 陽の落ちた窓の外で、暗がりがこどもを手招く。窓枠を乗り越えた細い肩を、玉泉山を包みこむ夜の色が溶かしていく。
 此処で生きると決めたはずの場所に、楊ゼンは自ら背を向けるしかなく、せめて身を切るほど冷たい風に晒され、温もりを忘れてしまおうとした。
 それでも、月のない真っ黒な空を恐ろしいと思った。恐ろしいと思う心がまだ残っていることが、悲しかった。




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