小さな手を引いて、小さな歩幅に合わせて歩く。足音がふたつ、玉泉山の静寂に滲み込んでいく。
 ふと立ち止まって仰いだ空から、細い光がこぼれおちた。風が頭上を通り抜け、木の葉をさらさらと揺らす。
「見てごらん、楊ゼン。雲の流れの早いことだ」
 答える言葉のかわりに、指先を握る頼りない温もりに力が込められる。言葉よりもずっと正直に、頷くように、縋るように。
 本当はその時、何と言うべきだったのだろうか。こどもは半歩後ろで、泣きだしそうな空を瞳にうつしている。

 楊ゼンが正式に玉鼎真人の弟子となり、金霞洞で暮らし始めたのは、その冬のことだった。
 変化の術がだいぶ安定したことから、玉虚宮を出ても問題なく生活できるだろうと、崑崙山脈の教主自らの判断である。
 しかし、洞府での修行には真剣に打ち込むものの、日ごとに顔から笑みが失せ、最近はわらってもどこかぎこちない。抱える不安を訴えれば玉鼎を困らせると思うのか、隠れて泣くこともあるようで、時折目元を腫らしている。
 今日も倒れて人型を保てなくなるまで変化の術を練習しており、きちんと体を休めるよう厳しく言い聞かせたところだった。彼のひたむきな努力と精度は玉鼎も認めているが、まだ危うい部分も多く、それにどれほど才能があっても――妖怪であっても、楊ゼンは玉鼎にとって、護るべき存在なのだ。
 何より健やかに育ってほしいというのが、赤子の頃から面倒をみている玉鼎の願いだった。

 寝台で眠る楊ゼンの、青白い頬にかかる髪を払ったり、耳の上に覗くツノを撫でていると、珍しく金霞洞に客人が訪れた。濃紺の肩巾をまとった宝貝オタクは、気が向くと用途不明の宝貝をどっさり抱えて、土産という名目で押し売りに来る。
 臥せっている弟子はもちろん心配だが、相手は仮にも崑崙十二仙のひとりである。誤魔化して追い返すのも気が引けて、できるだけ速やかに立ち去ってもらうべく応対に出たところ、
「玉鼎のちっちゃい弟子がどんなもんか見に来たのさ。皆気にしてるけど、大勢で押し掛けちゃ悪いからって、一番近くに住んでる私が来たんだよ」
 だから宝貝は、今日はオマケ。
 太乙真人は悪びれずにそう言って、あれこれと“今日の土産”を取り出した。雲中子からは変な薬と桃、道徳真人からは子供用のランニングシューズ、竜吉公主からは甘い菓子、他にもたくさんの心遣い。太乙自身も手先の器用さを生かして、宝貝エネルギーに頼らないカラクリ仕掛けの玩具を手ずから作ってくれたと言う。
 妙なところで結束の固く情に篤い、崑崙の仙人たちの厚意に、張り詰めていた気が少し綻ぶ。
「……かたじけない。が、今はちょうど眠っていてな」
「寝てる? あーそっか、この時間帯はお昼寝タイムか」
 厚い雲に覆われた空が、仄かな橙に色づくのを見て、客人は勝手に納得してくれた。
「すまないな、茶の一杯も出さずに」
 いずれ楊ゼンが人型変化を容易く保てるようになったならばともかく、今の時点では人前に出すことはできなかった。完璧を目指すあまりに体力の消耗が激しく、秘密がどうこうという以前に、楊ゼンに掛る負担が大きすぎるのである。
 とはいえ、それまで玉虚宮で秘密裏に育てていたこともあってか、突然あらわれた“玉鼎真人の弟子”について、皆多少の関心は持ってもたいした噂は広まっていないようだ。
「いいよー、そんなこと。お邪魔するには早すぎたみたいだし。……玉鼎も慣れるまで大変でしょ」
 にっと笑った太乙真人も、遠慮ない言葉の軽さとは裏腹に、金霞洞の事情に無理やり踏み込もうとはしなかった。
「修行の他に、共通の話題とかあるのかい? どんな話してるの?」
「あぁ……」
 まるい瞳は朝焼けの薄紫、切り揃えた髪は深淵の蒼。
 花のような笑顔の似合うこどもは、いつからか言葉を飲み込むようになった。きつく噛みしめられた唇を労わって、玉鼎がそっとなぞっても、心までほどいてやることはできない。
 小さな弟子の抱える悩みは、その身の丈よりも随分と大きく、千年の時を生きてきた玉鼎も、かけてやる言葉を探して迷っている。
 剣で斬って終わらせることもできず、下手な慰めも傷を広げる気がして、いとけない背中をただ見守るばかりだ。
「……雲の流れが早いだなどと、つまらぬことを言ってしまった」
 そんな葛藤をどこまで読みとったのか、太乙は笑うのを途中でやめたような咳払いとともに、肩をすくめた。
「あれだね、玉鼎。あまり言葉のかけたさに、ってやつだね」
「なんのことだ?」
「『あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空ゆく雲のはやさよ』――下界で流行っている恋の歌だよ」
 きみたちの場合は家族とか、親子みたいなものだけど、相手を大切に想うほど他愛もないことしか言えないなんて、まるで歌の通りじゃないか。
 朋友の明るい声に、玉鼎はわれ知らず苦い笑みを刻んだ。
「親子か……」
 楊ゼンにとっての親は、“いつか迎えに来てくれる”はずの“お父様”だけに違いない。置いて行かれたと信じている者の傷は深く、自分こそがそれを癒せるとの考えは自惚れが過ぎるだろう。
「否。私は、あの子の家族にはなれないよ」
 情を断ち切るように、玉鼎は首を振った。
「……私は、ただの師だ」
 そうは言うけどなんだか寂しそうだよ、と茶化すのは、さすがの太乙も躊躇ったようだった。




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