しんと張りつめた様子の部屋の中の中央に、椅子一つ。
その椅子の5メートルほど向こうに相対するは長机。
長机の向こうには慎重な顔つきをした二人の男が座っている。
片方の男が静かに、だがしかし部屋中に響くような威圧感のある声で尋ねる。
「それでは、黄天化といったな。お前が警察官になりたい志望動機を述べてみろ」
警察の間では知らぬものはいない、誰もが恐れおののく正義の鉄槌、鬼警官『聞仲』。
その隣に座る――青くさらりとした長髪の男――がこの面接の受け答えを漏らさず書きこむ為に、机上にある紙面にちらりと目を走らせると、ペンを握りしめる。


二人は今回の面接者の表情や仕草をじっと見つめた。
 

この面接での質疑応答は、その時の警察官仲間の間では後々までの語り草となる。
警察官志望で只今採用試験面接中の黄天化は元気よく、はきはきと自信満々に答えた。


「俺っちは、親父を超える男になりたいからさ!!」






そして世界は今日も平和である。





「あー。今日も平和やねー」
 ここは桃源郷通り8丁目交番内。天化は腕を頭の後ろで組み、椅子に座って意味もなく天井を見上げた。
「じゃあ一足お先に見回り行ってくるわねっ。天化っ!」
 蝉玉はこの交番の警官の中で唯一の同僚である。
「蝉玉…」
 いつも楽しそうなこの同僚の姿をじっと見つめる。
無言でじっと自分のことを見る天化に少々怯み、蝉玉は軽く身構えた。
「な、何よ…?」
「――蝉玉、ちょっと思ったんだけど、もしかして最近太ったさ…?」
 蝉玉は一瞬だけにこりと微笑む。
「ふんっ!」
 そして、無言でヒールで天化の腹に思い切り蹴りを入れると去って行った。
「さ〜て、今日も仕事仕事〜♪」
「あの女…。正直に思ったことを口にしただけなのに、なんで俺っちがこんな目に合わなきゃならんのさ…」
 何事もなかったように上機嫌に出発した蝉玉に、天化はお腹を押さえ、悪態をついた。






「とりあえずまだ警邏までの時間はあるし、交番の前にでも立ってみるさね」
 天化はよいしょと椅子から腰を上げ、交番の前に立つ。






 しばらくすると、「メ〜リィ〜クリ〜スマ〜ス!メ〜リィ〜クリ〜スマ〜ス!!」
 まるで酔っぱらいのようにふらふらとした足取りで交番までやってくる男がいた。
いかにもおぼつかない足取りの男を、しかしこの先どうなるのか大方の予想がついていた天化は黙って見守った。
予想通り、妙な酔っぱらいのような男は天化の目の前に来るとぴたりと止まった。
頭にはトナカイの被り物、あごには白く長い付け髭、体から下はスノーマンの着ぐるみ、そして片方の手には大きな竹ボウキ。


「よぅ、天化。久しぶりだのう」


 いつもとなんら変わりない笑顔を太公望は浮かべた。
「スース…せめてもうちょっと普通の格好して登場してほしかったさ…。知り合いじゃなかったら正直、職質かけたくなるさ…」
 もっともの意見であるが、太公望は何を!と反論する。
「わしは、世の中の色々な所にこれからプレゼントを配りに行く素敵なサンタクロースなのだ!!なのに、おぬしにそんなことを言われるのは心外だのう!」
「だったらまず、トナカイかサンタクロースか、スノーマンのどれかに統一するさ。それだと訳わかんねえよ」
 今初めて気づいたのか…それともとぼけているのか、どこまでが本意なのかわからない太公望は考え込むように白髭のついている顎にあくまで真面目そうに手を当てた。
「むう…そうであったか…まぁそれはいいとしよう」
「いいんかい!」
「今日は毎日頑張って働いている天化にプレゼントを持ってきたのだ!大したものではないが、クリスマスバージョンと普通バージョンのどちらがいい?」
「……俺っちはもう大人だぜ、スース?子ども扱いはやめてほしいさ。スースの気持ちはありがたいけど、今更クリスマスプレゼントなんて俺っちには必要ないさ」
「まぁまぁ、そう言うではない。大人になっても、たまにのご褒美や夢を見る心持ちは大事じゃぞ?」
「………そういうもんかねぇ?」
「うむ、そうである!」

 自信満々の太公望。

しばらく考えた末に天化は「じゃあクリスマスバージョンで…」
とりあえず、本人がくれるというのならばありがたくもらっておいてもいいさという結論に達した。
「よっし!さすがは天化!お目が高い!!ほれ、じゃあ手を出せ」
 素直に手を出した天化の手のひらに太公望はポケットからごそごそと取り出した何かをのせる。
「これは…」
「ふふふ…これはステッキ型キャンディーとスープーぬいぐるみだ。素敵に無敵なお巡りさん天化よ。服装には問題があるが、志がまっすぐなのはわしはよく知っている」
「服装のことは余計さ!」
 警察官は警察官の制服があるが、天化は地方の交番なのをいいことに、いつも自分が着ている私服で通している。
上司の楊ぜんが『風紀を乱すお巡りさん』であると、この問題については実は始終頭を悩ませているのだが、天化はこの服装を変えるつもりはない。
このファッションスタイルは自分なりのポリシーでもあるのだ。
「道端で子どもが泣いている時にでもそのキャンディーをやるがよかろう。さすればきっと楽しい気持ちになるだろう。ぬいぐるみもクリスマスだから特別なプレゼントなのだ。感謝せい。では」
 一瞬にやりと笑った太公望は、そのまままっすぐ歩いて去っていく。


クリスマス仕様の赤と白のステッキ型のキャンディー、そして手のひらより少々大きいサイズのスープーぬいぐるみ。


天化は予期せぬ出来事で子どもと遭遇した時の為に、基本的にキャンディーは常備している。
しかし、よりによって今日は家に忘れてきてしまった。
しまったと内心思っていたので、今回のスースのステッキ型キャンディーはありがたかった。
それに、これはたしかにこの時期だからこそのもので、警邏の時にでも誰かにあげると喜ばれるかもしれない。
「……スース、ありがとさ!恩に着るさ!」
 遠くなる太公望に天化は心からの感謝の気持ちを述べた。






「おう、天化!久しぶり!」
「天化…」
 手を上げて陽気に声をかけてきた夫とは対照的に、おっとりと微笑む静かな佇まいの妻。
「親父!母さん!久しぶりさ!二人とも元気かい?」 「こっちは二人とも元気だぜ!心配するな!」

 がははははと飛虎は持ち前の大きな声で笑う。

「親父、その笑う時ツバ飛ばすクセいい加減になんとかするさ!汚いさ!」
 息子の抗議にも何のその、飛虎は大して反省した色も見せず「おう、すまんすまん」と軽く受け流す。
二人のやりとりを見守りながら、くすくすと口元に手を当てて小さく笑っていた賈氏はふと天化を見上げる。
「天化…お仕事の調子はどうですか?」
「あぁ。調子はいいさ!色々厄介な事件もあるけど、俺っちはそういう時に人の助けになりたいと思っていたから、ちょうど良かったさ。それに、警邏やこの交番で色々な人とかかわれるのも楽しい。職場の方は、……」


――天化は一瞬だけ思いを馳せる。
ちょっと融通の利かない聞仲、女装(変装?)の楊ぜん、 はっちゃけな蝉玉。でも…


「…ちょっと変わった人が多いけど、楽しい職場さ」
「そう…良かった」
 ほうと安心したように母はため息をつく。
「そうね…あなたは今までどんな壁でも一人で乗り越えてきたものね。今更心配なんて、する必要はないのかもしれないのに、つい…ね」
「ありがとう、でも俺っちは心配してくれて嬉しいさ、母さん」
 天化は正直な気持ちを口にした。
「――天化…もう大きくなったあなたにこんなことをするのはおかしいかもしれないけれど、あなたのことを今ここで、抱きしめてはいけないかしら…?」
「え……」
 ためらいがちな母の言葉に、天化はたじろぐ。
この年齢になって母親に抱きしめられるのはどうにもこうにも抵抗がある。
第一、 母親に抱きしめられたことなど一体いつ以来だろうか。
天化は記憶の片隅を掘り起こしてはみたものの、もう軽く十年は前のことのような気がする。
「…なんでさ…今更そんな…」
途端に天化は歯切れが悪くなる。
「そうよね……いきなりごめんなさいね」
微苦笑をする母の姿に、天化は迷う。
左右と交番の後ろに影がいないか天化は素早く見回し、よく確認してからそっぽを向いて少々ぶっきらぼうな様子で。


「――まぁ、今は別に誰もいないから構わないんだけどさ…」


「ごめんなさいね、天化」 申し訳なさそうにふふと小さく笑った後、ふわっと賈氏の手が天化の頭をやさしく撫でた。
 そのすぐ後に背中にそっと両腕が伸びる。
天化は手持ち無沙汰な手をどうしようかとしばらく迷った末に、ぽんぽんと両手で母の背を軽くたたいた。
気が付けば天化よりずっと一回りも小さく見えるようになった母。
母の身体からは小さい頃に大好きだった、そして今も昔も変わらない安心できる落ち着いた香の匂いがした。

――そうだ、昔はこのやさしくおだやかな母によく抱きしめてもらったものだった。

天化はぼんやりと思い出す。 嬉しい時も、嫌なことがあった時も。
悔しくて、辛くて悲しくてもうこれ以上どうしたらいいのかわからない時も。

―― …うん。そうなの……大丈夫、あなたは大丈夫よ、天化――。

そうして母に抱きしめられ、頭を撫でられることで安堵した。
やさしいぬくもりとあたたかな言葉で、小さな天化は明日への活力を見出し、また前を向いて歩いてきたのだった。
昔と比べて少し小さく感じる母の背のぬくもりを感じながら天化は薄く思った。
「こんなに大きくなって…こんな素晴らしい息子たちがいる私は世界一の幸せ者だわ。あなたが生まれたこと、あなたを育てられたこと、こうして今一緒にいられることに感謝したい気持ちでいっぱいよ」
「はは、母さんったらちょっと大げささ」
「そうね…でも、なぜかしら。今、無性にそう思うのよ」



 しばらくすると、賈氏は腕をほどき、天化から離れた。
「ありがとう、天化。私の我儘を聞いてくれて…」
「別に、我儘を聞いてやったとかそういう訳じゃないさ。それより親父、俺にヤキモチ焼かなかったかい?」
 無言で二人の様子を見守っていた飛虎に天化はからかいと冷やかし半分、――そして実は残りの半分は照れ隠し――で声をかけた。
「何言ってんだよ、バカ。もう今更そういう年齢でもないだろが。じゃあそろそろ行くか?賈氏」
「ええ、あなた」
 最後に賈氏は天化の両手をぎゅっとその白く細い手でやわらかく包んだ。
「天化、あなたの帰る家はいつでもここにあるから。何かあったらいつでも帰ってきなさい」

  対して飛虎は自分の息子に対してあくまでさっぱりと。

「天化、親不孝にならないうちにたまには顔でも見せな!なんなら今日でもいいぜ?せっかく今日はクリスマスなんだしさ。今日は天化以外は久しぶりに全員帰ってくるから、賈氏とごちそう作る予定なんだ」


 天化はその場で少々考えた末――。


「……あぁ、わかった。今日は無理かもしれねえけど、近いうちにな。じゃあな!親父、母さん!」



 交番から去った後、不意に飛虎は賈氏に後ろから抱きついた。
「まぁ、何ですか?あなた?」
「いや、別に。何となく」
 唐突に抱きつく様子の飛虎に賈氏はわざと気づかないふりをして尋ねる。
飛虎が一見大らかそうな性格に見えて、意外に時々ヤキモチ焼きなことは実は賈氏だけが知っている。
「もう、しょうがない人ですね」
 そう言いつつ、賈氏も首だけ後ろに振り向いて、片手を夫の頬に添える。
「あはは、本当だな」
 別に否定する様子もなく明るく笑う飛虎。
賈氏はこの人のこういう屈託のない太陽のような明るさが本当に愛おしいと思う。
「それにさ…『素晴らしい息子たちがいて世界一しあわせ者』なのは結構なことだし、俺もそう思うんだがよ……えーと…んー…」
  曖昧に言葉を濁す夫に妻はまあと小さく笑う。
「『では、俺はどうなんだ…?』ということですか?」
「いや、まぁ…別にそういう訳じゃ…」
 息子相手にヤキモチを焼いてバツが悪そうな顔をする飛虎に賈氏はくすくす笑いながら、自らのささやきが聞こえるように片手を夫の耳元に寄せた。


「?」


 なんだろうと思い、飛虎は素直に少しだけ顔を傾け、耳をすませる。
こそこそ、と何事かを飛虎の耳元で賈氏が話す。
すると、飛虎は一瞬驚いたような顔をしてから、少し恥ずかしそうに頬を指でかいて笑った。
「そっか、じゃあそれじゃ賈氏も俺も二人ともお互い様だな!」
「えぇ…そうですね」
 二人は自然と手をつないで今日の夕飯の買い出しに向かった。



――私は、あなたと会えてしあわせよ。こんなに素敵なあなたに会えて、素晴らしい息子たちに恵まれて、私はきっとこの世の誰よりしあわせね。








「見たわよ〜ん!」
いつの間にか見ていたのか、突然天化の後ろで怪しく笑い、思いきり抱きついてきた人物に天化はぎょっとする。
「よ、楊ぜんさん……っ?!」
「あ〜ん、天化ちゃんにはいっつも私の変装がわかっちゃうのねん。残念だわん〜。今日こそ天化ちゃんのハートをいとめようと思ったのにん!」
「冗談は格好だけにするさ、楊ぜんさん…」
ひったくりや痴漢の捜査などがあると、ことあるごとに女装をし、犯人をひっとらえようとする楊ぜん。
検挙率はたしかに目を見張るものがあり、他部署からも高く評価はされているが、天化はこれが楊ぜんの女装癖なのかそれともおとり捜査の一環なのかいまいちよくわからないのが本当の所である。
「もう、天化ちゃんったらつれないんだから〜ん♪」などと言いつつ、楊ぜんは白い布で全身を覆い隠したかと思うと、ばっと上空高くに放り投げた。
すると、すでにそこにはもう警察官の制服に身を包む楊ぜんがいた。
一体どのようにして一瞬に着替えをしたのか、なんて愚問だ。
彼の女装・変装は最早手品の部類であるのだから。


「ところで…今、いたのは天化君のご両親だね」


そして、女装を解くと、すぐにいつもの上品な(しかし時々どこかおかしい)楊ぜんに戻ってしまっているのも天化にとっては不思議である。


――まるでどこかにスイッチでもあるみたいさ。


「そうだけど…って、楊ぜんさんもしかして今の見てたさ…?!」
「うん」
「どこから?!」
「どこからって……君の母上が天化君に『抱きしめてもいいかしら…?』って聞くあたりから…かな?」
「あー!!!」
考え込んでからの正直な楊ぜんの答えに、思わず天化は地面にしゃがみこみ、頭をかきむしった。
よりによって一番見られたくないところを見られてしまった…!
この年になって母親に抱きつかれている所など、誰だって見られたいはずがない。
天化は穴があったら入りたいと切実に思った。
しかし、楊ぜんは別にからかったり、笑ったりする様子もなく、予想外の反応を見せる。
「――いいね、君の家は。まるで本当の家族って…そんな感じがするよ」
天化は頭をかきむしる手を止めて、楊ぜんを見ると、どこか遠くを見ながら曖昧な表情を浮かべていた。



楊ぜんはまだ警察官駆け出しの天化とは違って、数年であっという間に積み重ねた数々の功績やその知性、容姿、人当たりのやわらかさ等で警察界での知名度は類い稀なほどに高い。
だがそれ故に、この地域の交番に勤めている者に限らず、数年勤めている者ならば、楊ぜんの家の事情はかなりの人物が知っている。




ある日、楊ぜんがまだ小さい頃に、父親が知り合いの玉鼎に子どもを預けた。



「事情があり、どうしても一緒に暮らせなくなってしまった。だが、いつか必ず迎えに来る」





――そう、言い残して。





それ以来、楊ぜんは玉鼎真人を親代わりとして一緒に暮らすこととなった。
就職してからは玉鼎のもとを離れ、今現在は楊ぜんは一人で暮らしているようだったが、父親からはいまだに連絡の一つもない。
もう二十年余りが経とうとしているのに。


「……そんなこと言ったってさ、楊ぜんさん。玉鼎さんだって、楊ぜんさんの立派な家族だろ?」
「………うん、そうだね」
苦笑するような、何かを我慢して無理をして微笑むような微妙な楊ぜんの表情。


――あー、こりゃ俺っちが言いたいことは楊ぜんさんにちゃんと伝わってないさ…。


天化は内心で肩をすくめる。


――この人も一見何でも器用に出来そうに見えるけど、肝心なところでは何故か不器用なんだよなぁ。


普段の楊ぜんは基本的に『何でも一人でやり遂げるし、やり遂げられる!』という表情をしている。
玉鼎真人との関係も良好で、『師匠のことを尊敬している』ともまるで楊ぜんは口癖のようにしょっちゅう言っている。


しかし、実際時々は複雑な気持ちになるのは恐らく確かなのだろう。


実の親に捨てられたのだという小さく乾いた思いが心の奥底では拭えないのかもしれない。
「いや、だからさ。そうじゃなくてよ。たしかに楊ぜんさんの親父は今もまだ帰ってこないかもしんねーけどよ…、でも、玉鼎さんだって、楊ぜんさんのことを本当に心配してくれるのは変わりはないと思うさ」


あるいは本当の親以上に。


世の中には悲しいが、親だからといって、必ずしも自分の子どもを心配したり、世話をしたりすることをしようとしない、無頓着な人間もいる。


正義感あふれる父に、穏やかで聡明な母親に育てられた天化はその事実を警察官になって初めて知ったのだった。


「少なくとも、俺っちは楊ぜんさんから玉鼎さんのいいところしか聞いたことがないし、玉鼎さんも楊ぜんさんのことをいつもほめて、それ以上に心配しているさ」
「うん…それはそうだと思う。でも、君たちの家のような自然な形の家族には……憧れるかな」


――あぁ、こりゃ駄目さ、と天化はさらに内心で頭を抱えた。


楊ぜんは天才的素養は十分に持つが、どうにも頭が固い。…と、いうか正しくは鈍いといった方が正しいのだろうか…。
だが、天化も上手い具合に言葉にすることが出来ない。


すると、その時。


「そこにいるのは、楊ぜんに…天化君かい?こんにちは、久しぶりだね」
まさに話題の渦中の玉鼎真人が目の前にいたのだった。
「わあ!玉鼎さん!かなり久しぶりさ!」
「あぁ、たまたまこの辺りを通りがかってね、ちょっと寄ってみたんだよ。楊ぜん…元気かい?」
「…あ、はい!」
「警察の仕事は時間も不規則で、体力的にも厳しいと聞く。大丈夫なのかい?」
「はい、元気にやっています。師匠に育てていただいた御恩は一生忘れません!」
突然の来訪者に驚いてしばし呆然としていた楊ぜんだったが、すぐにその場で姿勢を正し、にこやかに玉鼎に挨拶をする。
その姿を見て、玉鼎は一瞬口を開き、何か言いかけた。
楊ぜんはそれに気づかずに笑顔のまましゃべり続ける。
「僕は、師匠が育てて良かったと思えるような、師匠が誰にでも誇れるような立派な警察官になってみせますよ。今まで本当にお世話になりました。どうもありがとうございました」


しかし、続けての流れるような楊ぜんの発言に、玉鼎真人は少しだけ開きかけた口を閉じてしまった。


数秒後。


「――――あぁ…そうだね。私は君をいつも誇りに思っているよ」
天化はついに我慢が出来なくなった。
「〜〜っ!ちょっと待つさ!!」
片手をいきおいよく出してストップをかけ、いきなりの怒気をはらんだ天化の制止に二人とも驚いたように顔を見合わせる。
「玉鼎さん!俺、お世辞にも頭は良くないから間違ってたら悪いけど、何だか今、本当は思ってたことと違ってること言ってたんじゃねえさ?」
「…いや、……別に…」


珍しく動揺する様子の玉鼎。



「嘘さ!!前、俺っち聞いたことあるさ!」
楊ぜんがいない時に以前、玉鼎が訪ねてきたことがあった。
楊ぜんの仕事ぶりや、周囲への接し方、普段の楊ぜんの様子など様々なことを熱心に、しかしどこか申し訳なさそうに玉鼎が聞いてきた。


その時に、最後に玉鼎が言った言葉。


天化はその時の玉鼎の表情を思い出しながら叫ぶ。
「この私が言うのも何だが、あの子はよくできた子だ!だから、逆に心配している!別に立派になんかならなくてもいい、自分に対して恩なんか感じなくたっていい!!普通でいい、ありのままの楊ぜんさんでいい!って!」
息をきらしてぜえはあと荒く息をする天化。


「し、師匠……それは…」


「楊ぜんさんだってそうさ!もっと玉鼎さんと本当の家族みたくなりたいってんなら、自分だって思ったことを言わなきゃ!言いたいことも言わずにため込んでばかりいたらそりゃ真の家族になれなくて当たり前さ!『名を名乗る時はまず自分から』と同じように、まず本当の家族になりたいんなら自分から心を開かなくちゃいけねぇさ!」


楊ぜんはその場で愕然とした。
このようなことを激しい口調で、今まで誰にも言われたことがなかったからだ。


しかも、自分よりも数年は若いはずの、一人の少年に真理を突かれてしまうとは。


重苦しいような沈黙が流れる。


――その沈黙を最初に破ったのは。


玉鼎はその場でふうと長いため息をつき、軽く頭を左右に振る。黒い長髪が一瞬だけ宙に弧を描いてなびく。
「楊ぜん……どうやら私たちが長年楊ぜんに言いたくても言えなかったことを天化君に、あっさりと言われてしまったようだな」
すっと玉鼎は楊ぜん――自分の息子――を見つめた。
「あの小さな子がよくここまで大きく…といつも私は感心してしまう。警察官という立派な職業にもなり、街の人々の安全を守っている…素晴らしいことだ、誇らしいことだ。たしかに、それは私にとっても嬉しいよ。だが、いつからか君は弱音を吐かなくなった。泣かなくなったね」

玉鼎は言葉をいったん途切れさせる。
「楊ぜん、いつも立派である必要はどこにもないんだよ。いつも手本であるように、私の恩に報いるためになんて…そんなことばかりしていたら、いつかきっと疲れてしまうよ」
「しかし…!」
声を荒げる楊ぜんの長い髪に玉鼎は指を通して撫でた。


まるで、子ども――小さな楊ぜん――に向かって諭すように。


「楊ぜん、立派な君も、苦しみ、悩み、迷い、もがく格好悪い君も、みんな君だろう?私は十分しあわせなんだ。君と一緒に今まで過ごせたこと、君を育てられたこと。血のつながりはないかもしれないけれど、私はまぎれもなく楊ぜんはかけがえのない、大事な家族だよ」


そして、玉鼎は楊ぜんに微笑んだ。




「大きくなったな…楊ぜん。私はそれが、何より嬉しい」




「師…しょう…」
思わず涙腺が緩んだ楊ぜんはその涙を玉鼎に見せぬようにととっさに袖口で涙をぬぐおうとする。
「ほら、楊ぜん。それが君の悪いクセだ。すぐにそうやって隠そうとする」
「イヤです!」
「……どうして?」
昔のようにやさしく問いかける玉鼎に、楊ぜんは更に泣きたい気持ちになるのを必死で抑える。
苦しんだり、悩んだりしてるならともかく、男だったら誰だって、こんな道の往来では泣き顔を見られたくありません!…天化君もいるし」
「俺っちのことは気にしなくていいさ〜」
天化はとりあえず言うだけ言った後は見ないふりを決め込み、空を見上げることにした。
たしかに自分が同じ立場だったらこんな道のど真ん中での泣き顔は見られたくない。
「はは…たしかにそれはその通りだな」
玉鼎はにこやかに笑う。
こんな玉鼎の笑顔を楊ぜんは久しぶりに見た気がした。


「師匠…すみません」


「何がだ?」
「僕は…きっと師匠の愛情を勘違いしていたんですね…」
いつも誰にでも玉鼎が自慢できるような人であらねばと思っていた。……いや、思い込んでいたのかもしれない。
格好悪くては師匠に申し訳が立たない、と。
でもそれは、一体何の根拠があってだったろうか?
「いや、…私もそうではないと思いつつ、言えなかったのだからお互い様だよ。もし、よかったら今度また一度家に戻っておいで。君はいつまでも私の大事な息子なんだから」
「はい…。……じゃあその時は仕事の愚痴を聞いてもらってもいいですか?」
「やっぱり仕事は大変なのかい?」
心配そうに尋ねる玉鼎に、楊ぜんはそれはもう、と意気込んだ。
「実は毎日やることが山積みで大変なんですよ。僕がいないと署内が回らないんです」
半分泣き笑いの楊ぜんの言葉に一瞬目を見開いた後、玉鼎は静かに、だが深く頷いた。
「あぁ、楽しみにしているよ」




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