素早く投げつけた糸の攻撃を、的の相手は首を軽く逸らして外した。
「ま〜だまだ」
ギリ、と歯噛みした王貴人の目線をあざ笑うかのように、黒衣の男はチョイチョイ、と指で挑発する。
「ほらほら、ここまでこいこい」
追いつけるかのう、と普通に走って逃げだした。その気になったら亜空間で姿を消すことも出来て、恐ろしい速さで空も飛べるのにそうはしない。
ほっぺたが膨らみそうになったが、あまりにも子供っぽくてやめた。
「待ちなさい!太公望」
「その名で呼ばれるのは久しぶりだのう」
軽く振り向いて口から舌を出してベロベロとやっている。貴人の頭は沸騰直前だ。感情をもてあそばれているのは分かっているが、積年の恨みが冷静になることを許してくれない。
出会った時は騙し合いで敗れ、琵琶の原形を晒された。貴人にとってそれは全裸で町中を引き回されるほどの屈辱である。しかも次もナタクに同じ目に合わされた。彼にスーパー宝貝金蛟剪を埋め込むように指示したのは太公望だった。二度も恥をかかせた彼の顔を思い出しただけで胸がムカムカする。
もともと太公望は体力で相手をどうこうできるような体型ではない。細っこい体つきに貧弱な筋肉。一度捕まえたらああもしたい、こうもしたい。耳から切り刻んでやろうか、服を切り裂いて裸で吊るしてやろうか、それからそれから。
残酷な想像は胸をときめかせ、愉悦に浸れる。しかしそれも「捕まえたなら」という仮定の上だ。すばしっこい相手に二の足を散々踏んでいる。
散々地面に無駄な糸をばらまいて、とうとう自分がそれに足を絡めて転んでしまった。無様に頭から地面に顔を突っ込んでしまい、口の中に入った泥をペッペッと吐き出す。少し離れた間合いから、追っかけているやつの高笑いが聞こえた。
「それでは、今回はこれでおしまい。もう少し修行してくるのだな」
腹立ちまぎれに投げつけた最後の攻撃は、亜空間に消えた相手に絡まりもせず、力なくくたんと落ちた。
「おのれ、太公望〜」
草むらにつんざくようなキンキン声がこだました。


「やれやれ」
伏羲は亜空間から再びもとの世界に戻った。草むらに散らばった糸。腹立ちまぎれに八つ当たりもしたであろう美しい女性の姿は、すでにそこにはなかった。
「後片付けはしてほしかったのう」
腰に手をやり、ぶつくさと不平をいうが、顔は笑っている。困った奴だ、と独り言を呟く。
「さてと、確かこの辺りだったと思うが」
己が逃げ回った跡を、記憶をたどりながら伏羲は歩いた。しばらく後、立ち止まりしゃがんで慎重に糸をつまんだ。
糸が落ちていた場所の、掌ほどの広さの草地が茶色く変色している。糸はやや赤く染まっていた。
「全く、あやつ、頭に血が上りすぎだ。攻撃が当たったのにも気づかぬとは」
彼はそっと腕を見た。わずかにうっすらと赤い線が残っている。暫く見ている間に自然治癒能力がその傷をいやした。逃げ回っている途中で、彼女が思わぬ方向から攻撃したのを避けきれなかったのだ。伏羲の血には強い酸が混じっている。その血は己の体以外何でも溶かす。災いに満ちた体だと思う。
「次に会う時は、場所を考えんといかんのう」
遊び半分で相手をしてきたが、その差も少しずつ縮まりつつある。勿論どんなに縮まろうと、本気で己が相手をすれば彼女の実力など塵にも等しい。片手で一振りすれば彼方に吹っ飛ばすこともできるし、紅水陣に誘いこめば跡形もなく溶かすこともできる。なぜそうしねぇ、ともう一人の人格がじれったそうに、しかし面白そうに囁く。
「あやつがかわいいからだ」
一つの体に二つの人格。ひねくれ曲がってそれを直すこともかなわず、歪みが少しずつ感じられる己に対して、真っ直ぐで一途な彼女が眩しい。
まあ、それもあと数年か、と言葉が風に溶けた。


「あいつ、何でこんなところにいるのよ」
王貴人はぶつぶつ不平を言いながら、長い階段を上っていく。石でできた階段は時を経ても崩れてはいない。が、階段の終わりには崩れ果て、瓦も落ちた廃墟が点在していた。元は殷の中心地、宮城だったところだ。広い石畳が一面に敷き詰められている。ここは殷の最後の王だった紂王終焉の場所でもあった。
見渡すまでもなく、目指す影はあった。むき出しの腕と顔以外は、影も実体も黒い。
「遅かったのう」
待ち人はにやり、と姑息な笑みで腕を組み笑う。久しぶりの対面に、胸のむかつき以上に闘争本能が体中を駆け巡る。
無断で蓬莱島は出られない。武吉と四不象が度々人間界に降りる時を狙って、こっそり蓬莱島を出るのが常だった。それもあまり頻繁には無理で、数年に一回ぐらいがやっとである。すると必ず相手がそれとなく居場所を知らせる「気」を飛ばしてきた。必死で探す二人には何も知らせないのに。
「前から聞こうと思ってたんだけど」
「何だ?」
「やつら、必死であなたのこと探してるわよ。どうして教えてあげないの」
ふらり、と碧の目が揺らいだように見えた。だが、それも一瞬だった。憎らしげな笑顔を振りまきながら、おぬしと遊ぶ方が楽しい、と言葉が返る。
貴人としては特に二人に同情していたわけではないが、あっさりと未練もなさげな返事に、闘争本能に腹立ちがプラスされた。
「薄情者」
カッカッと軽い笑いだけであっさりかわされた。
「懐かしいのう。王貴人。覚えておるか?ここは紂王が最後に散った場所だ」
「その場所であなたが今度命を散らしてもいいんじゃない?髪の毛ぐらいあの二人に渡してあげるわよ」
「……そんなつまらぬことをするな」
もうこれで話はおしまい、とばかりに仇敵は軽く手を振った。その手の周りに白い雲のようなものがまとわりつく。何だろう、と目を凝らすと、体の横を強烈な衝撃派が通り抜けた。風は激しく彼女の髪を揺らし乱す。身体に纏った紫綬羽衣が吹き飛びそうになり、慌ててしっかりと握りしめる。伏羲が放ったものだった。
貴人は思わず目を見開く。今までは鬼ごっこの様に、一方的に追いかけ、こちらが力尽きるのを見計らったかの様に逃げられるのが常だった。彼の攻撃を目の当たりにしたのは、あの戦い以来だった。琵琶の弦を握りしめた手が震える。ケタ違いなのは間違いない。
「さてと、怖気ついたなら、5数えるまで待ってやるからとっとと去れ。残ってたら容赦はせぬ」
5と澄んだ彼の声が高らかに朝歌に舞う。4と聞こえたとき貴人は背を向けそうになった。笑われてもいい。ここにいれば間違いなく死神の餌食になるだろう。3、の声が耳に入り、靴先が真逆の方向へと向かいかけた。体の向きを変えようとした。が心に湧き起こる疑問がその場に踏みとどまらせた。
そもそもおかしい。自分はここにいると呼び出したのは彼の方なのだ。今まで散々自分の心をもてあそんでおいて、今更殺す気になったとは信じられない。何かがあるのだ。が、それが分からない。
分からないのなら、……知りたい。
何も分からずに背を向けて、何も知らないで通すには、彼との戯れは多すぎた。
0、という未だ中華に存在しない数が響いたとき、広場にいる人数は二人だった。


「中々根性はあるようだのう。無謀というべきか」
ほう、と感心したかのように彼は口先に笑みを浮かべた。しかし目は笑っていなかった。その眼差しの鋭さに貴人の心はたじろぐ。自分の足がむき出しな服装を彼女は呪った。足の震えを見られて笑われたら、再びどころか三度屈辱を味わうことになる。
「良いのか?今度琵琶になったら、直すものはいないぞ?」
「うるさい!」
言うが早いか貴人は糸を投げつけた。いつもと同じように彼は軽くかわす。
数度投げつけていったが、彼はやはり逃げながらかわすだけだ。貴人は伏羲に投げつける以外に、広場の廃墟にも数本気づかれぬようにそっと糸を投げつけた。廃墟は広場の周りに点在しており、二人が追いかけっこを演じる間に本数を増やしていった。いつの間にか糸は結界の様に伏羲と貴人を取り込んでいく。星を幾重にも重ねたような糸の陣の真ん中で二人は向かい合った。
「なるほどのう、考えたな」
ふふん、と腕を組み、それでも余裕を残して、伏羲は空を見た。
「飛んで逃げるつもり?それなら」
貴人は紫綬羽衣の端をぴらぴらと振った。さすがに伏羲の表情が強張る。
「これを朝歌の空にばら撒くわ。前にもやったことあるけれど」
寂れたとはいえ朝歌にはまだ人家もある。
「やめよ!」
「あなたならそう言うと思ったわ。エセ人徳者だし。ならおとなしく観念なさい。死の旋律で地獄に落ちろ!」
狭くなった範囲の中で、伏羲は投げつけられた糸をかわしきれず、頬と腕から鮮血が飛び散った。
「貴人、わしに血を流させては……!」
「知ってるわよ。元は王天君の体だから酸が混じってるんでしょ。勿論当たらないように気を付けて慎重に壊してあげ……」
勝ち誇った貴人の声が止まった。腕の傷を押さえた伏羲がその場に座り込む。まだそこまでのダメージはないはず、と彼女が首を傾げた時、俯いた黒衣の男の中から、地の底を這うようなまがまがしい声が響いた。
「……紅水陣……!」


男が顔を上げたとき、王貴人は目を見張った。柔和な童顔はどこにもなく、沢山のピアスで飾られた尖った耳、おそらく消えることはないだろう黒い隈で縁取られた目、紫の肌。勿論貴人が知っている顔である。
「あなた……王天君」
「よう、久しぶりだな。妲己の妹君」
達者で何より、という言葉は前の伏羲の口調と変わりないのに、快活で朗らかだった声はねっとりとした異臭を放っている。元は十天君を束ねていた人物だ。貴人の背中を冷たいものが伝った。
「太公望は……」
紫の男は尖った爪で己の頭を叩く。
「疲れておねんねだよ。子守唄でも歌ってやるか?」
元々な、と頼んでもいないのに王天君の伏羲はベラベラとしゃべり始める。
「あんたに居場所を知らせていたのは、あいつじゃねぇ、オレだよ」
「何ですって?」
「時々妲己が寂しがるんでな。呼び寄せてたって訳だ。でもエサがオレじゃああんたこなくなるだろ。あいつはその辻褄合わせをやってただけ。あんた太公望に対してだけは執念深いからな」
「……」
「簡単な問題を出すぜ。白と黒の同じ分量の絵の具がありました。混ぜたら何色になりますか」
「……」
「白ほど染まりやすい色はないんだぜ」
「……」
「どっかで限界感じてたんだろな。一生懸命オレを押さえつけてたくせに、今日とうとうオレを表に出させちまった。それまでにあんたに何とかしてほしかったんだろうが」
「……どういう意味よ」
「オレが知るわけないだろ。知りたくもねぇな」
「私に何ができたっていうのよ」
「まあ、そうだな」
白のまま、消えたかったんじゃねえのか、と当の本人の片割れが冷たい声を出す。
ぽたり、ぽたりと血の雨が降り始める。
「……つっ……」
雨が当たった肩先を貴人は抑えた。当たったのはほんの小粒なのに、体の芯まで溶けるような痛みが走る。
「あんたは妲己の妹分だ。殺したら妲己が悲しむ。空飛んでとっとと逃げな」
「あなたはどうするの」
「オレ?せっかく久しぶりに外に出たんだから、もう少し陣広げて朝歌の連中の阿鼻叫喚の沙汰を見てやるよ」
「!」
「まあ、そんなことになったら蓬莱島の連中も黙っちゃいねぇだろう。感動の再会の直前であいつをたたき起こしてやる。すんばらしい劇が見られるぜ。あんたは高みの見物と洒落こんでな」
思わず貴人は伏羲の肩を掴んだ。自分より一回り小さな姿は、邪悪な笑みを消そうともしない。心から黒なのだこの者は。だけど。
「起きろ……」
「あん?」
貴人は肩を掴んで伏羲の体を揺さぶる。紫の顔が上下左右に振り子のように振り回される。
「起きなさいよ!太公望!あなたこんな奴にいいように扱われてんのよ。黙って寝てるなんて許さない!」
「だから寝てるって言ってるだろ。これまでずっと奴は起きっぱなしだったんだ。疲れ果ててるから声なんて聞こえねぇ。あんたあいつおもちゃにしたかったんだろ?」
ニヤリ、とピアスをはめた唇がゆがむ。
「蓬莱島の奴らにどういう目に遭うか分からねぇが、その後で好きにしたらどうだ?」
「私は……」

―― 耳から切り刻んでやろうか、服を切り裂いて裸で吊るしてやろうか、それからそれから……

「このインチキ野郎!とっとと目を覚ましなさい!」
「あんた、バカだな。このままだと黄飛虎の二の舞になるぜ」
雨はあれから数滴当たったが、体中が興奮しているからだろうか、貴人は頓着しない。
「私がやっつけたかったのはあなたじゃない!」
「だからぁ、しばらくしたらたたき起こしてやるって言ってるだろ」
「崑崙一のイカサマ人間じゃなかったの?金鰲の仙人の足元にも及ばないっての?お笑いだわ。そうじゃないと言うのなら、出てきて証拠見せなさい!」
あーあ、と王天君の伏羲は両手を上げてお手上げだ、とのポーズをとる。
「つまんねえ流れになりそうだ。とにかく妹君さんには無理矢理ご退場願うしかねぇな」
右の手で手首を掴まれた。貴人は思わず悲鳴を上げそうになるのをこらえる。肩先に当たった酸の雨より鈍い、絞り込まれるような痛みが走った。
ぐいっと引かれ、華奢な体がよろめいた。その時、相手の空いた左手に視線が止まる。
左手のあたりに、薄い霧のようなものが発生している。やがてそれは細長くなり、先に球を付けた銀色の棒の形を取った。
伏羲の顔を見ると、先ほどの余裕の表情は消え、眉根を寄せて何かと戦っているようにみえる。
「あいつめ……」
喉の奥から憎しみに満ちたような声の後、苦しみを絶えるように伏羲が顔を伏せる。ギリギリと耳の奥をかきむしるような歯ぎしりがしばらく続いた後、彼の口から声が迸り出た。
でもそれは先とは違い、温かく、穏やかな落ち着いた響きで。
「……太極図……!」
球の先から幾百、幾千もの流麗な文字が走り出る。やがてそれらは空を駆け、紅水陣を少しずつ確実に浸食していった。


赤黒い空はもうない。上空に見えるのはどこまでも抜けるような蒼天。
「心配をかけたのう」
こちらを向いた顔に王天君の面影は消えている。あの人を喰った、大嫌いな顔がこちらを笑いながら見ている。
「太極図は発動までにタイムラグがあるのだ。おぬしが王天君の気をひいてくれたから助かった。かたじけない」
礼を言われて、貴人はバツが悪そうに横を向いた。
「べ、別に心配なんか」
そうか?とこちらをからかうように伏羲が笑う。眩しい笑顔に向ける顔が思いつかない。
「証拠を見せろと言われたから出てきたのに」
「全部聞いたの!」
「最初から最後まで、ぜーんぶ」
へなへな、と貴人は腰を下ろした。これは琵琶になる以上の屈辱だ。土壇場で吐いたセリフを姉様達に知られたら、恥ずかしくて顔を合わせられない。
「そんなにしょげることか?」
「あなたには分からないわよ」
フッ、と鼻先で笑う息だけが聞こえた。胸のむかつきが再開する。言葉を返そうとして王貴人は伏羲を見上げた。しかし碧の瞳は閉じられ、そのままばさりと貴人の横たわる。思わぬ急変に貴人は傍に駆け寄った。細く目は開いてはいたが、息が荒い。
「ど、どうしたの」
王天君は言った。これまでずっと奴は起きっぱなしだった、一生懸命オレを押さえつけてた、と。
まさか、ここで。
「心配、するな。久しぶ、りに、スーパー宝貝、を、使った、から、体力、を」
貴人は首を縦に何度も振った。分かった、分かったと言うように。彼がそれ以上しゃべると、もっと恐ろしいことが起こるような気がした。
「今日はもう」
貴人はごくりと唾を呑みこむ。最後の気力を振り絞るように、伏羲は言葉を並べた。
「相手はできぬが、どうする」
碧の目が答えを催促するように、こちらを見ている。

―― 耳から切り刻んでやろうか、服を切り裂いて裸で吊るしてやろうか、それからそれから……

長年の願いを果たす時が来たのだ。

――白のまま、消えたかったんじゃねえのか。

手に握りしめたままの羽衣は汗に濡れてでしわが出来ている。気が付くと自分の息は相手のそれより荒い。貴人は胸元から短刀を取り出した。初めて彼と会ったときに、刺し殺そうと使ったものだった。刃先が日の光をはじいても、碧の目は少しも揺らがなかった。
「耳から切り刻みたいのだけど」
「痛そうだのう」
「服を切り裂いて裸で吊るしてやろうと思って」
「それは恥ずかしいのう」
「それから……」
「それから?」
揶揄するように歌うように相手は答えを返す。まるで遠い国の全く知らない人の話をするかのように。ずるい、と貴人は思った。イカサマ野郎だけはある。今日起きたことが、全部この男の策の様に思えた。こんな風にされたら。本当に、ずるい。
「……したかったのだけど」
「?」
「代わりといっては何だけど」
「はい?」
一瞬の静まりの後、バチーンと平手打ちの音が広場に響いた。かなりの衝撃に伏羲は腫れ上がった頬を押さえる。ケタケタと笑う貴人の声。
「あー少しすっきりしたわ。欲を言えば身体を起こしているときにやりたかったわね」
ふがふが、と腫れた頬を押さえて、言いたそうにしている彼のあごを掴む。
「次はこんなじゃ収まらないから、覚悟してらっしゃいな」
今度は耳切りと吊るしをワンセットでやろう。そうしよう。
「それからね、少しましになったら」
広場をぐるりと見渡す。自分の張った糸が幾重にも広場を取り囲んでいる。
「後片付けお願いね」
呆然と見返す彼の顔から、少し味わった勝利の味。それを頭に刻み込んで、貴人は悠然と空に舞い上がった。








written by 龍野あかり様(螺旋回廊

[14年 06月 14日]