童顔の青年が、前を向いてひたすら急ぐ。
本当は走りたいが、足元は昨夜ようやく上がった雨で水たまりが所々出現している。
はねた水で制服を汚すと店長に叱られる。
気は急くが、急がば回れ、急がば回れと使い古された慣用句で心を落ち着かせる。
ようやく店にたどり着く最後の角が見えてきた。
大通り沿いの店まであと少し、薄暗い裏道を光の照らす場所へ足を踏み入れようとしたとき、


「……た」


誰かにこっそり耳元で話しかけられたような気がした。


それと共に肩先の服が後方へ少し引っ張られる。
後ろを向くが、誰もいない。
実態のないものに触れられている。


首を少し無理に曲げ、肩先を見るとそこには薄く細い指があった。
うす水色の手がが路地に差し込む光で透けている。
手には何か文字らしきものが掘り込んである。
普通なら異様な光景だ。
右手だけが空間から浮き出て、手首付近はどす黒い闇に包まれている。
そこから先は普通に路地の壁が背景になっていた。
指が5本あるのがまだ人らしいというべきか。


その状態に青年は少しも動揺しなかった。
ポケットから携帯を取り出し、店にかける。
「ああ、店長ですか。わしです」
電話の向こうから甲高い声が聞こえる。
不惑はとうに過ぎたはずなのに、予想外のことが起きるとテンパる女店長の声には慣れていた。
「今日休みます。とりあえず連絡まで」
電話口の怒声を断ち切るように、電源をそのまま切った。



「で?」
「探した」


耳元からの声ではなく、頭にそのまま伝わる特殊な方法。
友がこういうのを得意としたな、と数千年の昔に思いをはせる。
鼓膜を直接震わせると、空気を媒介とせず、脳に直接音声を届けることができる。


「わしに一人語りをせよと?」
「なに、すぐに終わる」


半透明の指をそっとなでる。
細い指と指が絡まり、長い時が一瞬でつながる。
「まだわしに未練があったか」
フフ、と見えぬ吐息が空気を震わせた。
指先には少しぬくもりを感じた。
久遠の時を生きてきた相手、もう会えないだろうと思っていた同胞。
光のなかで、共に逝こうと誘われながら、果たせなかった約束。


「星の母に見守られつつ生きる気分はどうだ?」


大通りの車の音がかまびすしい。
黒白赤青と色彩が変わるがわる路地の壁と壁の隙間に現れては消える。
時を超え、文明を超えて今ここに居る不思議。


「悪くはないのう」


冷たいコンクリートの壁に身をもたれさせて、天を仰ぐ。ビルとビルの間は空が狭い。


「そうか」


彼女は彼女で再会を望んでいたが、それには膨大な時を必要とした。
指一本分の組織を集めるのに百年。一つがオーストラリアに在れば片方はバルカン半島。
北極のシロクマにいじられていたり、ペンギンの雛の遊び道具だったり。
指が集まれば掌に数百年。
そして、


「そちを探し求めるのにおよそ千年」
「そうか」


青年もいつしか気配を感じていた。温度の違う空気、ほほを撫でる温かいもの。
だが太母の気配と入り混じって区別がつかなかったのだ。


「二人ともうるさいのう」


勝手に壊して勝手に復元して。
その後も双方の執着から離れることもできず。


「迷惑か?」


今度はこちらが笑う番だった。


「いいや」


屈託なく目を細め、肩をつかんでいる手をこちらもつかんでやる。
向こうが離れようとしたが、離さぬよう握りしめた。
頬を染める彼女の姿が、頭に浮かんだ。
それをからかったら、そんなことはないと、ムキになって否定するだろう。


「わしは共には逝ってはやれぬが」


身体はすでに、始祖ではないのだから。


「わかっている」


手首を見ると、少し短くなったような気がした。


「今日は休みを取ったから、少し昔話をしよう」
消えるまでは傍にいてやる、と。
ああ、懐かしや。と細い声が耳の奥で聞こえる。


恨み言も、哀惜の言葉もひっくるめてきいてやろう。





毛羽立った畳の部屋で、階下のバーの調子外れたカラオケの声と共に
数千年、数万年、それよりもっと昔の話をした。
青年が覚えていることもあり、欠落した記憶もあった。
思い出の隙間を埋めつつ、青年が眠りに落ちると
彼女はそっと彼から手を離した。


「それではまた」と別れを告げて。


青年が目を覚ました時、すでに気配は消えていた。
寂しくはなかった。
また指を集め、掌を集め、再び肩先をつまむ日がいつか来るだろう。


「早いうちに来るがいい」


青年はそっと空に声をなげた。
今を謳歌している文明が消滅する前に。




written by 龍野あかり様(螺旋回廊

[13年 3月 21日]