呆けたように天井を眺める。
カツカツコソコソと物音を立てるのは、人の世を流れを知らぬネズミであろうか。

朱の欄干に金の装飾。ところどころに紗の張られた幕。
そして漆黒の玉座に、豪奢な服をまとい並み居る官僚たち。

それが余の知る朝議の場であった。

今では人っ子一人いない、ただただ空間の広がる虚偽の広間。
ぽつんと一人枯れきった姿で玉座に持たれるわが身を誰かがみたら、
狂いが一人、場を間違うて彷徨い来たと思うであろう。

灯りをともす下官もおらず、外からの夕日が無遠慮に差し込んでくる。
日の当たらぬ暗がりには、闇が鎮座し色もない。

白と黒のはざまにぼんやりと見入ると、
黒の空間に白いかげろうがうっすらと這い出てきた。

それは少しずつ形をなし、見目麗しき女の輪郭を作る。


「妲己」


このような荒みきった場所故だろうか
彼女の美しさは一際映えて見えた。
名も知らぬ、肌にぴったりと沿った服をまとい、異色異形な帽をかぶり
そして底の高い細い靴を履く。
それが、カツリカツリと、間近にやってくる。


「紂王さまぁん」


ねっとりと溶かしたばかりの飴のように絡みつく声。
閨で最後に言葉を交わしたのはいつだったのだろうか。
それもすべて、かげろうのように思えて。


傍に寄ってきた彼女は、躊躇もせず私の額にキスをした。
触れるな、と声を出した。出た声はしゃがれて発音もあいまいだ。
避けたいのではない。むしろもっともっと触れたい。
残された刻の許す限り混じり合いたい。
彼女の肌を、唇を、奥の奥まで。

しかし、今の余は。

白く触ると抜けてしまいそうな頼りない髪。
顔は触れると幾重ものしわがより
歯は欠け、唇は潤いもなく
手は乾燥し粉をふく。
瞳は己では見えないが、覇気などかけらもないだろう。

もう余は、そなたにふさわしくないのだ。妲己。


「あらん、紂王さま。しばらくご無沙汰だったから、愛想を尽かされてしまったのかしらん。
わらわは悲しいわん」


違う、と声を出そうとしたが、もうあの年老いた声を己の耳に入れたくなくて
そっと首を振る。


彼女が、そっと笑った。
真摯に最後まで、妲己を毒婦となじり、炮烙の贄と消えた官が、嫌った唇の端を曲げる笑顔。
その妙にぎこちない所も、余は愛した。


己の心のすべてを真で終わらせたいから、
最後にささげられる言葉は。


「さらばだ」


少しは若々しくあるよう努力したつもりだ。
察してもらえただろうか。
早く逃げよと、目で外を見やる。


彼女の笑みは少しも変わらず。

再び私の額に口づけを残して、消えた。



*   *   *   *



「姉さま。そろそろ行こうよう」
見物人も一人去り、二人去りして、今はもう誰もいない。
楼閣の陰から一部始終を見届けて、喜媚が飽きたと愚痴る。
「このような血生臭い場、姉さまに似合わないわ」
特に血臭もここまで漂わないのに、貴人が大げさに鼻のあたりを手で扇ぐ。

二人を無視して、そっと紂王の傍に降りた。
いや、今はもう「一部」というべきだろうか。

周の世の証明に、彼の頭は必要だろう。
必要でない「その他」が、打ち捨てられたかのように、石畳に横たわる。
首から流れた血潮はすべて流れつくしてしまい、すでに乾きつつある。


彼の最後の言葉は、別れの一言だった。


最後まで本当のわらわを知らずに、彼は逝った。
身体は知っても、心は知らずに。


「愚かだわん」


愚か者は、嫌いだもの。
不器用で、色ボケで、本当にお馬鹿さん。
蹴っ飛ばしても、構わないと思っていた。



そうしないのは、なぜだろう。
ほんとう、とはなんだろう。



すっと彼の体を抱き上げた。
数千年の修業を得た身には、一人の男の体など軽いものだった。
ただ、首がないからバランスが取り辛い。
最後まで手間をかけさせるわね、こいつ。

彼を胸にかき抱いて、城郭を飛ぶ。

妹二人はついてこなかった。
それがいいわ。あまり最後の逢瀬を邪魔されたくないし。


城から離れた森の中。
彼をいったんおろし、地に手をかざすと一人入るぐらいの穴が掘れた。
その中に彼を入れ、再び手をかざすと彼は地中に姿を消した。

いずれ望みがかなったなら。
この星の重み分の彼の重み。
それぐらい共にいてやってもいいわよ、と弔いの言葉代わりに。



written by 龍野あかり様(螺旋回廊

[12年 08月 27日]