薄暗い夜だった。月はあるが明かりは弱く、夜空は深い雲に埋もれている。
湖にぼやける月影を見つめながら、太公望はもう一度杯を傾げた。
「師叔、こちらへおられましたか」
振り返ると人影がひとつ立っていた。深い蒼の髪がひらりとなびく。
「春とはいえ、夜遅くは風が冷たい。もう入ったらどうですか。お仕事も溜まってますよ」
「春の夜、月は満月で風は涼しいのう。つれない事いわず、お主もこっちへ来て休んだらどうだ」
「夜の寂しい独酌に同参は、ご遠慮させて頂きたいのですが」
「そうだのう。一人で飲むのもそろそろつまらなくなってきた所だ。あがって、酌でもしてくれぬかのう」
だらしなく横たわったまま手招きすると、呆れたようなため息が聞こえてくる。
「ため息などつくでない。特製の仙桃酒を味わわせてあげよう」
普段の態度からすると、帰って行ってしまうだろうとは考えて言ったのだった。
だが、どうした事か楊ゼンは暫し考えてから床にあがってくるのだ。
「では、お言葉に甘えて」
太公望はびっくりして身を起した。
「お主、仕事は?」
にっこりと笑みながら楊ゼンが答えた。
「僕の分は終えてあります。ちょっと飲んで、残りは師叔を連れて行ってからにしましょう。なんです、その顔は?ご自分で呼んだのでしょう」
ご遠慮なさらず、と楊ゼンは太公望の杯にお酒を注ぐ。
「そうか。珍しいのう」
苦笑しながらも太公望はその杯を受け、楊ゼンの杯にも酒を注いでやった。楊ゼンは丁重にそれを受け取った。


「師叔、これが全部仙桃で作ったお酒ですか?」
閑談をしながら暫く飲んでいたら、楊ゼンが問いてきた。
「うむ。なかなかであろう?」
「そうですね」
素直に頷く相手に気をよくして、太公望は湖から水を及んできた。興味深く見つめる楊ゼンの前でその水に仙桃一つを落とす。固い筈の桃は音も無く水に溶け、すぐに濃い香が周りを満たした。
二人の仙道は新鮮な酒の香りに笑いながら再び杯を上げた。
「これじゃ、周りの人たちが走って来るかも知れませんね」
「それは困るのう。仙桃もそろそろ品切れなのだ」
「師叔の無節制のおかげしょう?」
「わしが節制していたら、お主もこのような酒は味わえまいよ」
「それはそうですね」
にっこりと笑う顔が微かに赤い。まだあまり飲んでいない筈だが、いつか酒がさほど強くないと言った言葉は本当のようだった。
まぁ自分で調節するだろうと、太公望はまた楊ゼンの杯を満たしてやった。楊ゼンも太公望の杯が空くたびに酒を注いでくれる。
普段はよく一人で飲む太公望だったが、これもこれで良い気がした。
「それにしてもこれ、元々水だったとは本当に思えませんね」
「当たり前だ。飲んでる最中に水の味なんかしたら大変であろう?」
「そうですね」
頷いた楊ゼンが、口を開いた。
「完璧な変化は、どうすればいいんでしょうか?この酒のように……」
「ん?なんだ、いきなり」
わざとなのか、楊ゼンはどこか拗ねたような顔をつくって見せた。
「師叔はいつも僕の変化を気づいてしまうじゃないですか」
太公望は呆然と相手を見つめた。
「しかし、お主とて別に隠しておる訳ではないであろう?まさかダッキ変化などを、本当のダッキだと信じさせる為にやっているのではあるまい。今更な」
「それはそうですけど……それ以外でも、いつも気づかれてしまう。貴方には」
お酒のせいか、妙にのろのろとした口調で言葉を継ぐ楊ゼンに、太公望は一瞬口詰まった。
「そうか?お主が変化の術を使うのは有名なものだから、わし以外にも殆ど分かるであろう?有名過ぎて誰もが知っておるのでは」
「それだけではない気がするのです……」
楊ゼンは顔を背けた。その視線の果てには薄暗い月光に照らされる湖がある。
水煙を濡らす月明がまるで水面から沸き起こるように見えた。空にも、水にも、杯の中にも。月の姿は歪み崩れ、微かな光を散らすだけ。
暫しそれを見つめた太公望が楊ゼンに問いた。
「何故ばれたくないと思う?正体を知られた所で、お主の実力に損が出る訳でもないというのに」
無言で湖を見ていた楊ゼンは、ゆっくり太公望を振り向いた。
下げていた視線が上げられ、太公望のそれとあった。
「当たり前でしょう?僕は完璧主義者だから、ですよ」
そう言い、楊ゼンは静かに微笑んだ。いつものように秀麗な笑みだった。


月明の中で儚く映る笑みを見ていた太公望は、突然酒瓶をつかんだ。
「飲めよ」
まだ酒が少し残っていた杯をいっぱいにして、それでも止まらず注がれる酒に、びっくりした楊ゼンが太公望の手を取った。
「師叔、何をなさるのです」
「お主の言ったように、完璧に変化した酒だからとっとと飲めと言うておる」
楊ゼンが瞬きした。
「もしかして、師叔、怒っていますか?」
「いいや。お主にしては珍しくこの酒が気に入った様子だからいっぱい飲めと言うだけだ。なに、酔っ払ってもかまわぬよ。ほれ、飲め、飲め」
少し慌てた様子で自分の機嫌を伺う楊ゼンに、太公望は次々と酒を勧めた。もちろん自分も飲み続けながら。だが先に降参したのはやはり楊ゼンの方だった。
最近仕事で疲れいたせいもあるだろう、気絶するようにその場で眠りへ落ちた楊ゼンから太公望は目を逸らした。瓶に残った最後の酒を自ら注ぐ。だがそれを飲む気は起こらず彼の視線はぼやけた月を彷徨った。
音もなく沸き起こるこの感情が、怒りか、切なさか、それとも別の何かのかははっきり分からなかった。だが、胸の中の鈍い痛みは確かなもので。
ーお主が何も言てこない以上、わしがお主にあげられるのは信頼だけだと言うのに……どうやら、わしは十分に頼もしくないようだのう。
淋しげに湖を見つめていた楊ゼンの視線が頭に蘇る。
太公望は後ろを振り向いた。
その瞳には異形の姿がひとつ映されていた。
だがそれはいつか会った琵琶の精とは違って敵意は欠片も感じられず、もの悲しげな月光の下どこか寂しく映るだけで、また微かに胸が痛んだ。




終わり

written by 天泉さま

[12年 05月 28日]