幼き彼と師との出会い

「いいかい?楊ぜん。これは、お父様との約束だよ。この約束をきちんとお前が守っていたら、いつか必ず迎えに行くから」
ひどく真剣な面持ちをして一人の男は、まだ年端もいかぬ一人息子の肩を両腕でつかみ、その瞳をじっと見つめる。
相対する少年も、どこか頑なな表情で父の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。


――だって、今見なかったら、大好きな父の顔を、この次にいつ見られるのかわからない。


そう思っただけで、少年の瞳からはぼろぼろと大粒の涙があふれる。


父親は両腕に力を込めて、自らの息子をぎゅっと抱きしめた。
「……すまない。私もお前と別れるのはつらいし、とても寂しいよ。だが…」


その次に続く言葉を少年は子どもなりに何となく理解して、知っていた。


今はどうしても父とは離れなければならない。
それだけはどんなに抗いたくても、絶対に変えられない現実なのだということを。


最後の別れだというのに、泣いてはいけないと思うのに、思えば思うほど涙が止まらない。




――次はいつ会えるのかわからないのに。
   本当は、離れたくなんかないのに。ずっと側にいたいのに。





「いいかい、楊ぜん。約束はたった二つだ。一つ目はもうわかっているね。いつも今みたいな人間の姿でいるんだよ。二つ目はさっき言っただろう?覚えているかい?楊ぜん…お前は頭がいいから、大丈夫だろう?」


楊ぜんは嗚咽を必死に我慢してから、やっとのことでかすかにその場で頷いた。


そして、もう一度父の顔を見た。


「――はい。わかりました。お父さま」


約束はちゃんと守るから。
お別れして、新しいところでもちゃんとするから。
わがままなんて言わないでずっと待ってるから。





――――だからどうか、お父さま。早くぼくを迎えに来て。







最後の父の顔はぼやけてしまい、よく見えなかった。








玉鼎真人は原始天尊の元に向かっていた。
原始天尊さまに内密に話したいことがある、との知らせを先ほど急に受けたのだ。
普段12仙としてだったり、太乙や道徳など数名と原始天尊と話すことはあるものの、個別にしかも『内密に』などと言われたことは初めてだったので、正直な所玉鼎は何だろうと少々訝しく思っていた。


「原始天尊さま。玉鼎真人、参りました」
カツンと靴音が周囲に鳴り響く。
「おぉ、よく来てくれた。玉鼎よ。実はお主に折り入って頼みがあるのじゃ」
「頼み…ですか?」
「そうじゃ。実はお主にこれから弟子として預かってもらいたい者がいるのじゃ」
「弟子…?なぜいきなり…」
弟子というのは、普通仙人界の者が自ら人間界に降りて、スカウトをしてくるものだ。
これまで、一度たりとも『誰かに頼まれて弟子をとる』などといった話を聞いたこともなかった玉鼎は更に戸惑いを覚える。
原始天尊は玉鼎の戸惑いに反応するように、曖昧に言葉を濁した。
「それがちと訳ありでな…。……その子は妖怪仙人なのじゃ」
「…!妖怪仙人?!」
驚きを露わにする玉鼎。
「まだ小さいのじゃが…通天教主の息子で、…名は、楊ぜんと言う」




ひとしきり玉鼎は驚いた後、原始天尊に抗議をした。
聞くと、その楊ぜんという名の妖怪仙人は変化能力という類い稀なる天才的素養があるゆえに、彼の今後の身の安全を図るためこちらに預けられたのだという。
預けられる子本人が妖怪仙人なのは特に玉鼎はそれ程気にならなかった。
妖怪仙人というと冷酷で残忍というイメージが強いが、そうではない者も当然いるはずであろう。
実際には玉鼎もよくは知らないが、崑崙側のある程度の偏見の目がある事実も否めないと思われるのだ。
だから、玉鼎にとってはむしろもう一つの事実が問題だった。





――そう、玉鼎にとって彼はあまりに幼すぎたのだ。





「妖怪仙人というだけならまだしも…私は今までそのようにあまりに幼い者を弟子に持ったことはありませんし…」
「だから今がその時なのじゃ。玉鼎…きっとお主自身の新しい経験にもなろうて」


どうにも歯切れ悪く玉鼎は断ろうとするが、原始天尊は一向に引かない。
ならばと思い、いっそのことこの際自分には向いていないということをきちんと玉鼎は主張することにした。


「はっきりと申し上げますと、…小さい子どもは正直私は苦手なのです。何を考えているのかわからないから、どう接したらいいのかわからない。大人とは住んでいる世界が違いすぎて、どのような話をしたらいいのかもわからない。ある程度大きくなった子どもならともかく…。私は面倒見がいいとも言えませんし、子どもと話をするのにも不向きです」
「それは、やってみないとわからないじゃろう?それに、今までお主の弟子はいずれもお主を師と仰ぎ、尊敬しているというておるぞ?面倒見が悪いなどと、謙遜事を言うでない」



他ならぬ原始天尊の頼みで出来うる限りはその思いに応えたいと玉鼎は思うが、今回だけは本当に困る。
玉鼎はなおも食い下がる。


「しかし…たとえばもっと……こう子どもに対して明るく接することの出来るもの…。そう、太乙真人とか」
「太乙はたしかに人当たりはいいが、宝貝作りとこの弟子の面倒を見ることの二つはやはり難しいだろう。それに、人の出入りも多い」
「では、道徳真君は…?彼なら私とは違って、子どもとも対等に接することが出来るでしょうに」
「道徳には人を引き付ける何かがあるが、秘密を隠すには不向きな男だろう。お主はおだやかな男だ。他者からの信頼も厚く、口も堅く容易に色々なことを口にしない。だから、逆に私は玉鼎…お主がいいと思ったのじゃ。他にこのようなことを頼める者はいない。それをわかってくれ、玉鼎。お主が適任だと思うたこの私の思いを」



――万事休す、とはまさにこのことだった。



「――――…わかりました。それで、その弟子を私は一体いつから預かればいいのでしょうか?」
「今日からじゃ」
「今日から…え、今日からですか?!」


玉鼎は言葉のとおり、絶句した。







「さぁ、こちらに来なさい。楊ぜん。彼がこれから君の師になる人物『玉鼎真人』だよ」
原始天尊に促され、扉から恐る恐る顔を見せた少年。
「今日から彼が君の師匠だ」
玉鼎は心の中で小さくうなり声をあげる。



――この子が本当に妖怪仙人なのか…?



海のように深い蒼色の髪に、上品そうな顔立ち。
頭の左右にくるりと生えている巻き角さえなければ、事情を知らない者がたとえ彼を見たとしても、人間じゃないと一体誰が思うだろうか。
せいぜい子どもにしては少々行き過ぎたひっこみ思案に見える程度だ。





しばし挨拶も忘れて呆然とする玉鼎に、楊ぜんはその小さな頭を下げた。
青い髪がその動きにつられて、一瞬だけふわりと宙に舞う。
「ぼくの名前は楊ぜんと言います。これからどうかよろしくお願いします。ぎょくていしんじんさま」
子どもに不似合いな丁寧な言葉遣い。
どこかおびえた表情。



――――これが、玉鼎と楊ぜんとの初めての出会いだった。





玉鼎はその場でしばしの沈黙が降りてからはっと気が付き、自らの名を名乗った。



あろうことか、自分から先に名を教えるどころか、子どもに先に名乗らせてしまった。


今までにこのようなことは後にも先にもなく、玉鼎はそんな自分が許せなかった。
一体、いくつ年が離れているんだ。
子どもに気を遣わせて先に名前を言わせてしまったと思うと、自分の未熟さにめまいがする気分だった。
楊ぜんはじっと何も言わないで、玉鼎の顔を見つめていた。










玉鼎は内心の動揺を押し隠した後に楊ぜんを連れ、そのまま玉泉山の洞府に戻った。
心の準備も何もなかったので、正直何をしたらいいのか、どのように接したらいいのか全くわからないが、原始天尊さまが『今日から』というのだから仕方がない。
楊ぜんも自分から言葉を発することはなく、ただ黙って大人しく玉鼎についてきた。
うつむいてただ下を見ている様子に玉鼎は戸惑いを覚える他なかった。



――それはたしかに、当たり前のことなのだろう。



いきなり親元から引き離され、生活も文化も違うような場所に放り込まれ、しかも新たに世話をする人物は本人の全く知らない人。
自分がたとえ同じ立場になったとしても、それはどれほど心に負荷のかかるものか玉鼎には想像出来ない。
子どもであれば尚更であろう。
こんなにもまだ幼い子が仙人界という大きな流れの中で為す術もなく…ただ大人の言うべきまま流されていくしかないことを、玉鼎は哀れに思う。


しかし差し当たっての現在の一番の問題はその点ではないこともたしかな事実であった。


引き受けた以上、もちろん責任を持って預かるつもりではいたが、自信は全くなかった。
きちんとこの幼い子を愛情を持って育てられるだろうか…。
そのような不安が先立ってしまう。



――せめてもう少し、大きければまだどのように接すればいいのかわかるのだが…。





洞府に着くまでの間に一人そのようなことを考えていた玉鼎の表情を、ちらりと一瞬だけ見た楊ぜんはかすかに表情をくもらせた。








「さぁ、今日からここが君の住む場所だよ。急な話だったから、君が楽しいと思えるようなものはまだ何もないかもしれないけれど…徐々にそろえていくからね。部屋は………一番奥の部屋が空いているな。日当たりもいいし、広いからここがいいだろう。少々物が置いてあるが…これも近々片づけて、本当の君の部屋にしよう」
洞府の中の一部屋一部屋を丁寧に説明しながら歩いていく玉鼎に、楊ぜんは黙ってついていく。
玉鼎が扉を開けると、その後ろから遠慮深そうに部屋をそっと覗く。



かなり緊張していることは玉鼎の目から見ても、明白に見て取れた。





一通り説明が終わった後――。



「せっかくだからお茶でも飲もうか」
楊ぜんの緊張が少しでもとけるようにと、玉鼎が自分なりに考えた上での提案だった。
最も…何よりこれ以上は玉鼎も一体どうしていいのかわからなかったというのも一端の事実であったが。
楊ぜんはこくりと静かに頷いた。
「今、お茶をいれるから椅子に座っておいで」
楊ぜんを食卓の椅子まで促し、玉鼎は台所へ向かう。
玉鼎がお茶の缶を取り出し、急須を用意していると――――。


「あの……」
「え?」


急に後ろからためらいがちに声をかけられて、正直玉鼎は驚いた。
「ぼくもお手伝いします」
「大丈夫だよ、すぐに準備して行くから。君はまだ子どもなんだから、椅子に座って待っててごらん?」
「…………はい…」
するとなぜか明らかに楊ぜんはしゅんとしてしまった。
落ち込んだ様子で椅子まで戻り、少し高い椅子に苦労してのぼって泣きそうな顔をしている。




――――早速何か間違えただろうか…。




自分用と来客用の湯呑を取り出しながら玉鼎は不安な気持ちに駆られた。




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