「ああ、復活の前に死があるね」―ロマン・ロラン


 崑崙山脈乾元山は金光洞の太乙真人に、ある時期奇妙な趣味があった。彼は純銀でできた精巧な人骨の等身大模型を丸々ひと一人分持っていたのだが、これをパズルよろしく丁寧に順序だてて並べるのである。たまたま訪れたおとうと弟子は大いに困惑した。客用の大理石の円卓に、未完成の骨格標本が横臥していたからだ。
「……変質者だ」
 前々からうっすらわかっていたけれど、と冷や汗をかいて若い道士は言った。それでももちろん聴かせるつもりで言ったのである。その程度には彼にもまだ稚気が残っていた。
「ひどいなあ、別に雲中子みたいに愛称をつけたり、添い寝したりしているわけじゃないよ」
 骨格標本の向こうから、美貌の科学者はにこやかに言う。言いながら手の中のものを投げてきたので、彼は反射的にナイスキャッチしてしまった。薄い四角い小さな銀のかけら、これひとつでたとえば貧しい一家が、一体何年暮らせるのだろう?
「まあ、地上ではそんなものかな。アルミニウムとかのほうが精錬も大変だし、私にはよっぽど価値がある気がするけど」
「あるみ?」
「ちなみにその形の骨は、涙骨って言うのさ。どこの部分に嵌るかわかるかな。呂望、ここへおいで。そうしてようく観察して御覧」
「……雲中子、様は、添い寝をしてるんですか?」
「さあね。見たことないからただの想像だよ」

 涙骨は眼窩板や顎と接する人体の部品であった。名の通り涙の嚢の一部を形成している。呂望は頬杖をついてつくづくと骨格標本を眺めた。太乙真人はパズルの作業を再開して歌うように言った。
「最近ね、柄にもなく考えていたんだ」
「何を?」
「そうだな……人間の、価値について。あと、生きる意義について」
「それ……」
 仙人が考えることだっけ。
 呂望はこの相手といるとつい敬語を忘れる。

 人のかたちをしたものに心が宿るということを、かつて呂望と彼の家族は当たり前のこととして受容した。それは咲く花に蜜があるように、果実に種があるように、冬が核に春を孕むように確かなことだった。彼は銀のうつろな眼窩を見た。そして奇妙な衝動にかられて手を伸ばしたが、年長者の手がそれを止めた。
「触るのはいいけど、もう少しやさしい雰囲気でお願いしたいかなー」
「……失礼しました」
「いいんだよ。でも、ねぇ?この脊髄ひとつだって、君の夢と繋がっているかもしれない」
 だって君の身体の中にも私の身体の中にも、これと同じかたちのものは埋められているんだよ。
 太乙真人は睫毛を伏せ、ひとつ銀の骨に口づけた。呂望は特に愕かなかった。仙人骨という概念は昇仙するときに聞かされたけれども、この標本はそこまで体現しているのだろうか。さて自分の中にこの一揃いがあるならば、あの日くだけたと思えたのは頸椎だろうか、胸椎だろうか。

「ひとをつくらなくてはいけなくて」
 こうして復習しているんだ。
 銀の骨は触れ合って不思議な音をたてる。
「復習?」
「うん。そのつもりだったんだけど」
 呂望は手伝い始めている。骨格標本は一度見たことがあるので、気づくと手が伸びてしまうのだ。復習なら手を出さない方がいいのだろうかと思ったが、別段止められもしなかった。
――改めて何についての復習かって言われると困ってしまう。そうだね仰せのとおり確かに、私の仕事はこういうのじゃないんだけど。
 キミはまだ若いからわからないかもしれないけれど、肉体というのはとても大切なものだ。キミの身体の中にも私の身体の中にもこの蝶々の骨があるし、舟のかたちが埋まっている。だけど抉り出して見るわけにもいかないだろう?……やめておこうよ、ね。キミは時々やりかねない顔をしているから怖いよ。
 それより形状について私は考える。
 このかたち。
 このグロテスクで端整な無駄のない愛おしいかたち。
 これを覚えておけば私は、ほかの色んなことを忘れずにいられる気がする……たとえこの手で自然に反したいのちをつくろうとも。
 そうだね、何でつくるかも確かに問題なんだ。何かいい案を持っていないかな。
 いのちだからちゃんと、闇の中でひかるようなものがいい。水や風に通じているものがいい。銀でもいいとおもったけど、やっぱり少しつめたい。
 たとえいつも目に見えなくとも、隣の世界には端然と在るようなものがいい。そのことを考えると、嬉しくなれるような。
 それは真夏に思い出す雪や、白昼胸の中でかぞえる星、封じられた書庫の中の知識や、誰もがどこかに置いてきた鮮やかな夢みたいな。
――ねえ呂望。
 君にそういうものはないの?

 彼はその場で椅子を蹴って出て行ってもよかったのだ。
 崑崙に来たばかりのころなら本当にそうしたかもしれない。
 相手が本来礼を尽くしてしかるべき崑崙十二仙で、その声の調子が夜明けの雨のようにやわらかく、ある種の音楽に似ていなければ、きっと呂望はそうしていただろう。
 彼は。
 最後まで一緒に骨を組み立てて、礼を言って辞した。そもそも呂望の用事はただの使い走りで、これも兄弟子からこの金光洞へと頼まれた書物があったのである。
 そしてその夜寝る直前になって同期に指摘され、はじめて自分の服のおとしに、例の涙骨が入れられていたことに気がついた。

○

 ひとをつくらなくてはいけなくて。
 覚えておくことが確かに重要なのだ。知っているだけではいけないと思った。知ることはそれだけでは、征服と何も変わらない。
 太乙真人は炉の前に立っている。パズルは今日でおしまいだ。
 小さな窓から見える内部はとろとろと朱い。
 眼窩がまだかたちをとどめている気がして、融けてゆくのを見守った。向こうからは自分の顔は、夢の隙間からのぞいているように見えるだろうと思った。

(いのちだから、ちゃんと)

 随分浮かれた物言いをしたなと少し笑えた。
 だいたいいのちとはどんなものであったのかということさえ、実は久々に思い出した太乙真人なのだった。永劫の山で物言わぬ機械を相手にしてきて、どれだけの時間が経っただろう。元始天尊の命にせよ、一度は断ろうと思ったのに。
――だって魂魄を持たない人形を人に似せて動かして、それをいのちと呼べるだろうか、ほんとうに?
 いみじくも彼らの教主が言ったようにこの楽園が実は箱舟で、今更誰一人船から降りることなどかなわぬのだとしても……。
 炉の戸をあけると夢の残骸めいた物体が、へばりついて鈍くひかっている。
 それでも何も忘れていない自分に、太乙真人は僅かに安堵した。

 帰結点は未だ不可視。
 せめて輪郭をなぞりたいと願う時、この年へた十二仙の脳裏をよぎるのは、どういうものかあの呂望という道士の面差しだ。
 わけてもその目は怜悧な理性と激情の蓋、必要とあらば自らの骨を抉り出すこともいとわぬ目である。
 涙骨を与えたのは、忘れてほしくなかったからだ。
 それが彼のいのちの糧になればいいと願った。
 あの子供がいずれどのようなものに巻き込まれていくのか、男はおぼろげながら知っていた。

○

 ひとをつくらなくてはいけなくて。
 必要なのはやがて世界を襲う奔流の中、支柱の一端になり得る力だ。自らの臓腑をおしひらくことも躊躇わぬような、傷ついて尚飽かず戦い続けるような器だ。――あの、彼のように。

(けれどそれだけでは、いのちにはとても足りない)

 呂望の届けてくれた本は何故か下界の植物図鑑で、この専門外の頁を捲ったのは、霊珠の熟成の間の手すさびのつもりだった。
 そして浮世離れした十二仙は、泥を剋して咲く花のことを、これで何千年ぶりかに思い出したのである。

○

 真夏に想う雪のつめたさ。
 白昼読みといてかぞえる星の軌道。
 封じられた書庫の中、絢爛たる知識の深い眠り……闇の中でひかるような。

 私はきっと、長いこと、そういうものを待っていた。
 私は愛したかった。







written by 鳩野まるみ様(Shall we polka on the shadow

[12年 03月 31日]