冷たい石畳の廊下を、ひたすら前を見つめて歩く。
奥歯をぎりりとかみしめながら。

怒りに震える殷の太師聞仲の姿を恐れて、近くに寄ろうとする者はいなかった。

たどり着いたのは堅固な牢。
牢番が聞仲の姿を見ると、礼もそこそこに立ち去った。
牢の鍵はすでにあけられており、足で蹴りあげる。
木造りの扉が粉々になり、轟音が牢内に響き渡る。
中には首をすくめた一人の男。

「おお、どうした聞仲」

暢気そうに声をかけるのは敵国の軍師、太公望だった。

つかつかと彼に近寄り、あごに手をかけこちらをむかせる。
「??どうした??」
気遣わしげな言葉とは裏腹に、目元が緩んでいるのがはっきりとわかる。

一杯食わされた。握りしめたこぶしが彼を打とうとするのを懸命にこらえる。




事の起こりは5日前にさかのぼる。

周の姫発が武王を名乗る、という一報が朝歌にもたらされ
偵察に周国境近辺まで黒麒麟を駆った時、遠目に霊獣を駆るものを見つけた。

軽く愛用の鞭をふるうと、こやつが落ちてきたというわけだ。

そこで相手が弱弱しい武器で、力不足を承知でも刃向ってきたのなら、
あっさり首と銅を分かっていただろうに。

「よう、聞仲。久しぶりだのう」

笑顔とともにこんな言葉を返されると、こちらも調子が狂う。

冷静に考えればこんなチャンスはない。
とりあえず捉えて牢に押し込んだ。

ところが捉えた相手はケラケラと笑って、
「こんな牢、わしなら5日で出てやる」
とほざいた。

そんな軽々しい言葉に乗るほどこちらも浅くはない。
鼻先で笑って牢を後にし、
敵国の軍師が捕まった、とすでに戦勝気分の兵を戒め、
警備を固めるようにと言いつけた。

はず、だったのだが。




「どうした?期日は今日のはずだ。時間切れならわしの負けだが」
どうとでもせよ、と白々しく続ける言葉が憎たらしいことこの上ない。
「兵1000名の命と引き換えだ!!」
周に捕まったのはよりにもよって精鋭中の精鋭。殷の国力が落ちている今となっては
目の前の貧弱な男の命より重い。
お前の勝ちだ、という言葉は死んでも口に出すものか。
眼光が鋭くなっているのが自分でもわかる、顔に血が上る。
「いったい何をやった!!」
にやりと笑って太公望は聞仲を見た。
「おぬしの嫌いな詐術を用いただけのこと。それ以上は問うな」
力ではかなわぬからのう、と少し弱く聞こえたのは気のせいか。

「ならばかまわぬ、牢にかかわるものすべてを片っ端から問うまでだ」
瞳をそらし、すでに残骸と化した扉を踏みつけ、出て行こうとすると
目の前に太公望が立ちふさがった。
「牢番らを拷問にかけるつもりか?」
「当たり前だ。このようなことがあっては今後何があるかわからん」
牢はある意味内の要。
「今後武王を捉える際に不手際があってはならんしな」
さらに彼を押しのけ出て行こうとするが、服を引っ張られる。
「何だ?明日には自由の身だ。敵国の兵に情けをかけるのか」
やはりそうかと心の中でつぶやく。
牢番は殷に忠誠心の厚いものを自身が選んだのだが、それでもつけいる隙があったのだろう。

「やむをえぬ。取引だ」
「取引?今更」

鼻先で笑う。

意外なところに逆転の好機はあったらしい。

「どうとでもせよ、といったであろう?」

彼はすいと牀台に歩み寄り、腰かけた。
その時初めて気が付いた。彼の服装が寝間着一枚の軽装であることに。

「命はやれぬ。がしたいようにするがよい」
見つめる目は先ほどまでの軽薄さはかけらもなく、優しさに満ちていた。
「その代りだ。牢番と家族の命、わしに預けてもらいたい」

「ほう?」
上着を脱ぎ、彼の肩に手をかける。
「おまえ自身を贄としても、牢番の命が大事か?」
「ほかにおぬしにやれるものがない」
「あるぞ、いくらでも。周の頭脳の要よ。お前の中の案の一部、
ここで吐露せば牢番と家族の命に数倍勝る」
今度は彼が視線をきつくする。
「それをするわしであるかどうかは、おぬしが一番よく知っているくせに」
ふっとお互いに笑う。どこかしら繋がっている思いはあるのに、どこまでも心は平行線で。
「わかった」

牀台に体を乱暴に押し付けられても、彼は顔色も変えなかった。
こちらを見る瞳はあくまで碧く、透き通っている。
そんな綺麗な目のまま、殷を倒せると思うな、と心の中でつぶやく。
ここで汚されたら、少しでも鈍色が混じるだろうか。この瞳は。

胸を軽くはだけさせ、首元に口を寄せる。
口づけをしようとして、止めた。

「気が変わった」と耳元に一言。

彼の全身が固まるのがわかった。
身を起こそうとするのを片手で押さえつけ、もう片方で彼の両手を戒める。
細身の彼が動こうとしてもびくともしないのはわかっている。
驚愕に見開く目を冷たく見据えそのまま押さえつけている手を彼の首元へと。

「そなたの首、周への贈り物にするのも一興」
「1000人の命と引き換えにか!!」
首を絞める手に力を込めると、彼の白い肌に赤みが増す。
どこかしら瞳にも鈍色が混じった気がする。

そうだ、その憎しみの目が見たかった。
綺麗で優しくて美しくて、どこまでも清らかで。
そんな争いごとなんて、ない。

血の混じるこの戦場にあるのは、碧ではなく鈍色。
どこまでも鉄の臭いが混じる、腐食の色。

顔色にどす黒さが混じったところで手を放す。
勢い余って彼が牀台から転げ落ちた。

身を起こして身構えようとしたようだが、視線がうつろだ。
足元もおぼつかないようで、無様だ。

まあ、こんな詐術に身を投じるようでは己も子供だ、と自身をなじりながら
彼に身を寄せる。

「敵に肌身を許すなどという手を使うようではまだまだだな」

物足りない。

「もっと楽しませてよん。太公望ちゃん〜」
宮城に巣食う女狐なら、そんな言葉を吐くだろう。

上着をはおり、牢を出る。

「供ぞろえは増やしておく。異存はないな」

かすれた声で礼の言葉が聞こえたようだったが、それは耳元をかすめただけだった。

written by 有沢みやび様

[12年 1月 10日]